2010年6月19日土曜日

祖母の逝去について

 正月の四日に、私の祖母が亡くなりました。昨年の12月の初旬に骨折し、治療
のため入院していたのですが、これで老衰が決定的となってしまったようです。
たち上がる瞬間に折れて転倒したらしいということですから、骨密度がだいぶ下
がっていたのでしょう。享年97才でしたから、大往生と言って良いと思います。

 1913年(大正2年)に生まれた祖母は、私の母を含め、4人の子供を育てまし
た。祖母の世代に敢えて名を付けるなら、「超国難世代」というところでしょう
か。彼女の夫である祖父は、戦争に駆り出されました。祖父は兵士の間に流行し
た脚気で戦列を離れ、命拾いをしました。そして昭和21年に私の母を産んでくれ
たのでした。

 私の、祖母についての最初の記憶は鮮明です。多分5才くらいのことだと思い
ます。祖母の住む母の実家に親戚の女性たちが集まった席で、皆が祖母を囲んで
いました。祖母がブラジャーを「ちちあて」など呼び、何やら大騒ぎしていまし
た(なんちゅう親戚や。。まあ、おおむね楽しく過ごしたようです)。それと、
私が母の実家の離れで一人閉じ込められてしまった時、私の泣き声を聞いて助け
に来てくれたのが祖母でした。これも5才くらいでしたでしょう。祖母にお礼も
いわずに母を探しに駆け出してしまいました。せっかく助けてくれたのに、悪
かったな、と子供ながら思いました。

 私は、親戚の大人たちが苦手な子供でしたので、可愛らしい孫にはなれません
でした。親戚で集まるとたいてい酒宴になってしまって、からかいの対象にされ
るのが嫌で、あまり近寄りませんでした。年の離れた従兄も、今思えば球技が好
きなだけでしたが、自分と違うように思えたので、遠くから見ているだけでし
た。物静かな、おとなしい孫と思っていたことでしょう。私が小学生のころです。

 私の父が人をほめることは滅多にないのですが、父は祖母のことをしばしば称
えていました。表現はその時によって様ざまでしたが、養鶏の手腕がただもので
ない、ということでした。たしかに敷地に養鶏施設がありました。百羽は居たと
思います。鳴き声が絶えず庭先をこだましていました。野菜を育てるのも、得意
だったようです。裏庭で育てたオクラも覚えています。カブトエビを初めて見た
のも、祖母の田んぼでした。光を浴びてなめらかに泳ぐ姿にしばらく見とれてい
ました。その近くでスイカが育っていました。私には夏の思い出が多く、神奈川
に住む叔父が帰郷しての帰り際、祖母が涙をこぼして彼との別れを惜しんでいま
した。私は鶏の声を聞きながら、車が出るのを待っていました。

 中学生になると、祖母の家を含め、親戚の家に遊びに行くことは殆ど無くなり
ました。私を可愛がってくれた祖父が急死した時に、葬儀のため久しぶりに祖母
の家に出かけました。祖母はせわしなく、玄関の掃除をしていました。葬儀の参
列者を慮っての掃除と言っていましたが、誰から見ても動揺した心を落ち着かせ
るためでした。夫に突如先立たれた祖母の気持ちを思うと切ないばかりです。祖
父の火葬が済んだ後、火葬場で食事をしたのですが、その席で「父の家業を継い
で欲しい」と言われましたが、私はうつむいたまま黙ってしまいました。私が父
の稼業を継ぐことを拒否していることを親戚中が知っていて、彼らに会うたび同
じことを繰り返し言われたものでした。そんなわけで「ああ、おばあさんも応援
してくれないのか」と落胆してしまったのです。しかし、あの席では、嘘でも
「継ぎます」などとは言えません。亡くなったお祖父さんに誓うも同然でしたか
ら。おばあさん、ごめんなさい。今から20年も前のことです。

 地元の夏祭りの時に、母は祖母を招待し、一晩くらい泊って行きました。父が
獅子舞の笛を吹き、お祖母さんが泊りに来るという、子供にとっては、またとな
い特別な1日となりました。祖母に時代劇を勧めたりしましたが、祖母はあまり
見たくないようでした。娘の嫁ぎ先とは言え、気を使っていたようでした。慎ま
しやかな性格の持ち主でした。

 たぶん私が小学生に上がったばかりの頃だと思います。私は外耳の異常を手術で治したのですが、ある日入院のため朝早くから支度をして家を出なくてはなりませんでした。とても寒い冬のことでした。付き添いの私と母を案じて、突然、祖母が尋ねて来てくれました。母も少し驚いておりました祖母は、何か手伝えることは無いかと言いたげにしておりました。私は、ただ眠くて、ぼうっとした頭で、なぜお祖母さんがここに居るのか、分からずにおりました。娘(母)と孫を不憫と思って来てくれたのでしょう。とても優しい気持ちの持ち主でありました。

 大学に行き始めると、とうとう祖母に会う機会が無くなりました。高校生の時
も、1度もあっていないかもしれません。それでも、敬老の日に万歩計を買っ
て、母にお願いして渡してたりしました。祖母が喜んで毎日散歩していると聞く
と、誇らしい気持ちになったものです(一方、母は野菜や果物を押しつぶして
ジュースにするという、迷惑な代物をプレゼントしていたようです。。)。
 
 それ以外は没交渉ぎみでしたが、たまにお小遣いをくれました。お礼の電話を
かけると、「。。。?」。渡したことを忘れているようでした。姉が遊び行く
と、「どちらさまでしょうか?」。姉は怒りながらも笑っていました。自転車で
野菜を乗せて7〜8Km先の私の家まで野菜を届けてくれました。畑仕事が好きな
せいか、健脚の持ち主でした。私はその野菜を口にしていたに違いありません
が、祖母に会うことは滅多に無くなりました。

 親類たちの願いかなわず、大学に進学した私に、健康相談を持ちかけてくれる
ことがありました。あれは体に良いか、どれが良いのか、ということを聞いてく
るのですが、民間療法は大学では習わないので、さっぱり答えられませんでし
た。代わりに、色々なものを食べて栄養のバランスが重要、ということを繰り返
し答えていました。話が全く噛み合っていませんが、今思えば楽しいひと時でし
た。マツキヨのCMで薬剤師が登場すると、私のことを思い出してくれていたよう
です。

 その頃から10年以上たち、私は東京の式場で結婚式を挙げました。高齢となっ
ていた祖母は残念ながら不参加でした。お礼に親戚を訪問し、そこで祖母にも会
えましたが、気が動転してしましい、何も覚えていません。

 2年後、父と母を誘って家内と旅行に行きました。温泉街で買った土産を祖父
の霊前にささげるため、祖母の家に行きました。歩いて行くと、祖母が立ってい
ました。日に焼け、背筋はぴんとまっすぐ。90才を超えているとは思えませんで
した。2005年の秋の頃です。家人は畑に出ていて、祖母ひとり昼に帰る皆を待っ
ていたようです。食事を頂戴するのは悪いと思い、早々に退散を告げましたが、
別れ際に祖母と握手をしてもらいました。帰る私と家内を追いかけるように、縁
側を素早く降りたのを覚えています。照れ臭さも手伝って、そそくさと退散して
しましました。かえって寂しい思いをさせてしまったかもしれません。その後、
私が来たということを、祖母は家人に知らせてくれたようです。皆さん突然の私
の来訪を信じられず、祖母の妄言でも始まったかと思ったようです。土産を置い
て行きましたので、事の次第はすぐに判明しました。しかし、祖母の元気な姿を
見たのは、これが最後となってしまいました。

 その後、私が研究員をしていた頃だったと思いますが、1回目の骨折をしてし
まいます。たしか恥骨でした。うつ伏せに倒れてしまったそうです。さらに、入
院中に肺炎を患い、親戚中が覚悟を決めました。幸いにして祖母は肺炎も骨折も
治し、退院します。当時、研究稼業の厳しさに喘いでいた私も大変励まされまし
た。しかし、以来、畑に出ることが出来なくなってしまいました。

 2007年に娘が生まれましたが、このひ孫を会わせることは、なかなか叶いませ
んでした。私が研究渡世のため、遠方に越してしまったためです。娘を会わせる
のは、2009年、祖母にとって最後の夏を待たねばなりませんでした。久しぶりに
会う祖母の肌は白くなっていました。日焼けした祖母しか記憶がありませんでし
たので、とても意外な気がしました。たまたまテレビで山城某が亡くなったと報
道していました。その瞬間、冷たい予感が背筋を通り抜けていきました。娘との
記念に、カメラを持っていったのですが、とうとう撮れずじまいでした。娘が終
始ご機嫌に過ごしてくれたのがせめてもの救いでした。祖母は耳が遠いこと以外
は、しっかりした受け答えができました。祖母との会話は、それが最後となって
しまいました。

 その冬に、2回目の骨折をしてしましました。最期は冒頭に書いたとおりで
す。入院したての頃は意識もはっきりしいて、話しも出来ていたようです。しか
し、年末に私が帰郷した時には、会話はできなくなっていました。年を越し、4
日の未明に逝去しました。この日の昼には存命しており、帰り際に病院に寄った
のですが、すでに親戚が集められて、母もそれに合流しました。家内と娘も立ち
よることができました。娘はただ事でない雰囲気を察知してむずがったので、家
内と外で待ってもらうことにしました。病室で久しぶりに会う親戚としばらく一
緒にいました。旅立つ人に向かって下世話にも「早く元気になってね」等と大声
で呼んだりしましたが、反応はありませんでした。ただ、昨晩から、ずっと目を
あけているとのことでした。今生の別れを覚悟しました。しかし、帰り支度をし
ていながらもう一晩泊るともいえず、やむを得ず帰宅しました。翌朝、姉から訃
報を受けました。後から聞いた話では、私が終電の新幹線から降りる頃に亡く
なったようでした。

 祖母の入院中、仕事の合間をぬって母が付き添いました。母は長女ですので、
祖母の片腕として家事を切り盛りしていたに違いありません。祖母と母は特別な
絆で結ばれていたはずです。そんな母を案じた私は、遠路でしたが葬儀に参列す
ることにしました。意識がある頃、祖母はお寿司を食べたいといっていたようで
す。そんなわけか、告別式では食べきれないほどのお寿司が出ました。姉の子供
たちも重い雰囲気を和らげてくれました。翌日は葬儀があり、花々に囲われた祖
母を火葬場に移しました。20年前の祖父の時と同じ火葬場でした。さすがに母と
その妹の叔母が沈みこんでいました。二人に「おじいさんと同じ場所に居させて
あげるために、同じかたちにしてあげないと」と声をかけてみました。案の定、
あまり効きませんでしたが、前向きに受け取ってもらえたようでした。私も20年
前より人の死を悼む気持ちが強くなっていました。逆説的ですが娘を授かった経
験をしたためだと思います。

 30数年前、私が生まれてからしばらくの間、母と私は祖母の家に居たようで
す。私の先天異常が判明し、母は泣いて暮らしていました。祖母が何かと元気づ
けてくれていたようです。「泣き声で分かる、この子の耳は聞こえている」と。
母は祖母の言葉に希望を託しました。母は私の先天異常を嘆く素振りを見せたこ
とがありません。きっと、その時、祖母が授けた勇気が受け継がれているので
しょう。子供を授かると、その親にも色々なことが起こるのでしょう。
 
 紐で結わえた竹四本の周囲を葬列が回るという不思議な儀式で納骨をすませた
後、参列者一同、お寺の集会所で会食をしました。何やらほっとした雰囲気に包
まれたのがとても印象的でした。長い間、祖母を介護した叔母に労いの言葉を掛
けることができました。「母の代わりに、有難うございました。」気がついたら
土下座していました。祖母のために何もしてこれなかった自分・期待通りの孫で
無かった自分を恥じていたこともあります。周りは少し驚いていたかもしれませ
ん。叔母さんは本当に大変だったと思います。それと、私がやって来たからで
しょうか、母は最後まで気丈でおりました。セレモニー全般に不得手な私が、粗
相しないか注意を払っていたのが却って良かったのかもしれません。

 天国のおばあさんへ:
  
   どうもありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。お祖父さん
には会えたでしょうか。初盆には帰れると思います。


 

 
 

 

0 件のコメント: