今日は、痛ましい亡くなり方をした私の親族のことを書きます。この親族は、父の伯父にあたり、終戦後シベリア抑留者としてソビエト連邦に連行された戦没者の1人です。強制労働の末、かの地で亡くなりました。その日から今日でちょうど60年を迎えました。
私の先祖が眠る墓の墓誌に、この親族の名前があります。村山常雄氏によりインターネット上で公開されている抑留者名簿にもその名が掲載されています。そこに命日が記録されており、これは墓誌に刻まれた命日と一致しています。村山氏の名簿に記載された収容所や強制労働先も信憑性が高いのでしょう。戦争の記録としてかのような努力をつづけられている村山氏に感謝いたします。
私の父から、何度かにわたりこの親族について話を聞く機会がありました。私の父は昭和17年生まれで、既に召集されていたのでしょうか、伯父の記憶は殆ど残っていないそうです。妻子がいたそうです。戦後、未亡人となった妻は子を連れて、父の生家をしばしば訪れ、服などを貰っていったそうです。生活が苦しかったことが窺えます。子の年齢は中学生くらいだったそうです。子は父の従兄にあたりますが、父より10才近く上でした。その後、音信不通となり、現在も行方が知れません。父が高校を卒業する頃に、祖父と父の2人で彼らの家を捜索したそうです。しかし、町並みが変わってしまい、とうとう辿り着けず、再会を果たすことができませんでした。ある資産家と再婚した、と聞いた記憶が父には残っているようです。父も若い時分でしたので、露骨な親戚の話題からは遠ざけられていたのでしょうか。
今年の冬の終わり頃に、辺見じゅん著「ラーゲリからきた遺書」というルポルタージュを読みました。この読書記録は別の機会に記しますが、この著作で登場する抑留者も内地に妻子を残して亡くなりました。妻子に宛てた遺書は怒号と悲嘆に塗り固められ、心臓を掴まれる思いでした。遺書の終局にかけて家長としての己を取り戻すかのように家族に最後の希望を託します。父の伯父もこのような思いだったのでしょうか。彼の遺族も遺書では無いにせよ手紙を受け取っているかもしれません。抑留死の場合も戦没者として靖国神社に祀られているはずですから、記念品の送付先から彼らの居場所が分るかもしれません。しかし、個人情報保護法が施行されましたので、安易に知らされることは無いでしょう。また、父も私も直系の遺族ではありませんから、この辺りで止めなくてはいけません。
4年前の春、ドイツに向かう空路から見下したシベリアの白い大地を思い出します。凍てついた荒野の只中に今も眠っているのでしょうか。どうか安らかに。
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