2009年7月12日日曜日

Aについて

チケット取れなかった記念としてAについて少し書きます。

 Aのアルバムを初めて買ったのは中2の秋(1990年)でした。ご多聞に漏れず中2病にしっかりと罹患していた私は、自由とは何か、自分とは何者か、自分はどう生きるべきなのか、あれこれ考えては悶絶していた。いくら考えても答えが出ない。良くある話だが、特に自由への渇望は他の人よりも強かったに違いない。
 
 私は、小さな工場を経営する父の跡継ぎとして生まれた。しかし、この工場を継ぐ気が全く起こらなかったのである。そんな私に、親や親戚はどうにかして私に継がせようと、集まるたびに説得しにかかるのだ。「職業って自由に選択して良いんじゃないの?」。たしかに原則はそうだろう。しかし、父母が一生懸命、必死の思いでに工場を経営している姿を皆知っていて、私は私で自分がどれほど必要とされていることが分っているから、余計に辛かった。多くの同級生がBやXを選ぶなかAを聞いていた理由は、反逆でなく自由を求めていたからに違いない。Aは自由の獲得とそれを実現するための自己変革、そして自由に伴う責任を、歌にして私に届けてくれた。すがるような気持ちで彼らの曲を聞いたものである。初めてのライブは高校1年。石油会社の横浜の空き地で行われた夏の野外コンサートだった※1。同じ夏に日本を代表するバンドSのコンサートにも行っているが、Aのパフォーマンスが圧倒的で印象強く、このバンドでしか味わえない強烈な魅力の虜になった。めでたく(?)A中毒となった私だが、相変わらず自分が何者であるかの答えは出せず、とりあえず部活動に精を出した。高2の頃から友人を誘ってAのライブに連れて行ったりした※2。その年は、夏のイベントが部活動の夏合宿に最終日にあたっていた。3日間にわたる厳しい合宿※3 の解散の後、くたくたの身を引きずるようにして横須賀まで電車を乗り継ぎ、開演と同時に会場にすべり込んだのは壮快な思い出。それまで「欲がない」と言われていた自分が初めて何事かを達成した瞬間だったと思う。この頃から、何事も前向きに考えられるようになった。自分探しにも一応の蹴りがついた。自分の人生は、自分で切り開くしかない、という覚悟を決めたのである。TTが伝えるメッセージと、この時の達成感が意図せず歯車のように上手くかみ合った。それがなければ今の自分は無かったと思う。

 大学生になると、メンバーのSKのラジオの影響から洋楽を聞き始めた。大学院に入ると、洋楽一辺倒になり、ほとんどAを聞かなくなった。あれほど熱望していた自由が与えられたからだろう。博士研究員になると、「え、アルバムでてたの」という完全な卒業状態に。今再びA熱が上がっているのは、家庭での役割が増え、自由が無くなったからだろうと自己分析しているが、どうだろう。私にとってAは、自由の象徴なのかもしれない。「この人生は誰のものでもない」。でも、私の場合は半分以上は愛娘に捧げることになるだろう。私の両親もそうしていたのだろうから、それで良いと思っている。

 Aについては、また気が向いたら書きます。

※1 帰途、あまりの混雑で最終電車に乗り遅れ、やっとの思いで大宮駅についた。駅で一夜過ごそうと思って電話すると父母が1時間もかけて迎えに来てくれた。こういう親だったからこそ、継がないという決意に罪悪感は強く、悩みは深かった。

※2 皆それなりに楽しんでくれたようだが、その後A中毒になる人は一人としていなかった。。

※3 弓道部だった。尋常でない程に弓を引かされた。25立ち/日くらいだったと思う。




0 件のコメント: