2010年6月19日土曜日

祖母の逝去について

 正月の四日に、私の祖母が亡くなりました。昨年の12月の初旬に骨折し、治療
のため入院していたのですが、これで老衰が決定的となってしまったようです。
たち上がる瞬間に折れて転倒したらしいということですから、骨密度がだいぶ下
がっていたのでしょう。享年97才でしたから、大往生と言って良いと思います。

 1913年(大正2年)に生まれた祖母は、私の母を含め、4人の子供を育てまし
た。祖母の世代に敢えて名を付けるなら、「超国難世代」というところでしょう
か。彼女の夫である祖父は、戦争に駆り出されました。祖父は兵士の間に流行し
た脚気で戦列を離れ、命拾いをしました。そして昭和21年に私の母を産んでくれ
たのでした。

 私の、祖母についての最初の記憶は鮮明です。多分5才くらいのことだと思い
ます。祖母の住む母の実家に親戚の女性たちが集まった席で、皆が祖母を囲んで
いました。祖母がブラジャーを「ちちあて」など呼び、何やら大騒ぎしていまし
た(なんちゅう親戚や。。まあ、おおむね楽しく過ごしたようです)。それと、
私が母の実家の離れで一人閉じ込められてしまった時、私の泣き声を聞いて助け
に来てくれたのが祖母でした。これも5才くらいでしたでしょう。祖母にお礼も
いわずに母を探しに駆け出してしまいました。せっかく助けてくれたのに、悪
かったな、と子供ながら思いました。

 私は、親戚の大人たちが苦手な子供でしたので、可愛らしい孫にはなれません
でした。親戚で集まるとたいてい酒宴になってしまって、からかいの対象にされ
るのが嫌で、あまり近寄りませんでした。年の離れた従兄も、今思えば球技が好
きなだけでしたが、自分と違うように思えたので、遠くから見ているだけでし
た。物静かな、おとなしい孫と思っていたことでしょう。私が小学生のころです。

 私の父が人をほめることは滅多にないのですが、父は祖母のことをしばしば称
えていました。表現はその時によって様ざまでしたが、養鶏の手腕がただもので
ない、ということでした。たしかに敷地に養鶏施設がありました。百羽は居たと
思います。鳴き声が絶えず庭先をこだましていました。野菜を育てるのも、得意
だったようです。裏庭で育てたオクラも覚えています。カブトエビを初めて見た
のも、祖母の田んぼでした。光を浴びてなめらかに泳ぐ姿にしばらく見とれてい
ました。その近くでスイカが育っていました。私には夏の思い出が多く、神奈川
に住む叔父が帰郷しての帰り際、祖母が涙をこぼして彼との別れを惜しんでいま
した。私は鶏の声を聞きながら、車が出るのを待っていました。

 中学生になると、祖母の家を含め、親戚の家に遊びに行くことは殆ど無くなり
ました。私を可愛がってくれた祖父が急死した時に、葬儀のため久しぶりに祖母
の家に出かけました。祖母はせわしなく、玄関の掃除をしていました。葬儀の参
列者を慮っての掃除と言っていましたが、誰から見ても動揺した心を落ち着かせ
るためでした。夫に突如先立たれた祖母の気持ちを思うと切ないばかりです。祖
父の火葬が済んだ後、火葬場で食事をしたのですが、その席で「父の家業を継い
で欲しい」と言われましたが、私はうつむいたまま黙ってしまいました。私が父
の稼業を継ぐことを拒否していることを親戚中が知っていて、彼らに会うたび同
じことを繰り返し言われたものでした。そんなわけで「ああ、おばあさんも応援
してくれないのか」と落胆してしまったのです。しかし、あの席では、嘘でも
「継ぎます」などとは言えません。亡くなったお祖父さんに誓うも同然でしたか
ら。おばあさん、ごめんなさい。今から20年も前のことです。

 地元の夏祭りの時に、母は祖母を招待し、一晩くらい泊って行きました。父が
獅子舞の笛を吹き、お祖母さんが泊りに来るという、子供にとっては、またとな
い特別な1日となりました。祖母に時代劇を勧めたりしましたが、祖母はあまり
見たくないようでした。娘の嫁ぎ先とは言え、気を使っていたようでした。慎ま
しやかな性格の持ち主でした。

 たぶん私が小学生に上がったばかりの頃だと思います。私は外耳の異常を手術で治したのですが、ある日入院のため朝早くから支度をして家を出なくてはなりませんでした。とても寒い冬のことでした。付き添いの私と母を案じて、突然、祖母が尋ねて来てくれました。母も少し驚いておりました祖母は、何か手伝えることは無いかと言いたげにしておりました。私は、ただ眠くて、ぼうっとした頭で、なぜお祖母さんがここに居るのか、分からずにおりました。娘(母)と孫を不憫と思って来てくれたのでしょう。とても優しい気持ちの持ち主でありました。

 大学に行き始めると、とうとう祖母に会う機会が無くなりました。高校生の時
も、1度もあっていないかもしれません。それでも、敬老の日に万歩計を買っ
て、母にお願いして渡してたりしました。祖母が喜んで毎日散歩していると聞く
と、誇らしい気持ちになったものです(一方、母は野菜や果物を押しつぶして
ジュースにするという、迷惑な代物をプレゼントしていたようです。。)。
 
 それ以外は没交渉ぎみでしたが、たまにお小遣いをくれました。お礼の電話を
かけると、「。。。?」。渡したことを忘れているようでした。姉が遊び行く
と、「どちらさまでしょうか?」。姉は怒りながらも笑っていました。自転車で
野菜を乗せて7〜8Km先の私の家まで野菜を届けてくれました。畑仕事が好きな
せいか、健脚の持ち主でした。私はその野菜を口にしていたに違いありません
が、祖母に会うことは滅多に無くなりました。

 親類たちの願いかなわず、大学に進学した私に、健康相談を持ちかけてくれる
ことがありました。あれは体に良いか、どれが良いのか、ということを聞いてく
るのですが、民間療法は大学では習わないので、さっぱり答えられませんでし
た。代わりに、色々なものを食べて栄養のバランスが重要、ということを繰り返
し答えていました。話が全く噛み合っていませんが、今思えば楽しいひと時でし
た。マツキヨのCMで薬剤師が登場すると、私のことを思い出してくれていたよう
です。

 その頃から10年以上たち、私は東京の式場で結婚式を挙げました。高齢となっ
ていた祖母は残念ながら不参加でした。お礼に親戚を訪問し、そこで祖母にも会
えましたが、気が動転してしましい、何も覚えていません。

 2年後、父と母を誘って家内と旅行に行きました。温泉街で買った土産を祖父
の霊前にささげるため、祖母の家に行きました。歩いて行くと、祖母が立ってい
ました。日に焼け、背筋はぴんとまっすぐ。90才を超えているとは思えませんで
した。2005年の秋の頃です。家人は畑に出ていて、祖母ひとり昼に帰る皆を待っ
ていたようです。食事を頂戴するのは悪いと思い、早々に退散を告げましたが、
別れ際に祖母と握手をしてもらいました。帰る私と家内を追いかけるように、縁
側を素早く降りたのを覚えています。照れ臭さも手伝って、そそくさと退散して
しましました。かえって寂しい思いをさせてしまったかもしれません。その後、
私が来たということを、祖母は家人に知らせてくれたようです。皆さん突然の私
の来訪を信じられず、祖母の妄言でも始まったかと思ったようです。土産を置い
て行きましたので、事の次第はすぐに判明しました。しかし、祖母の元気な姿を
見たのは、これが最後となってしまいました。

 その後、私が研究員をしていた頃だったと思いますが、1回目の骨折をしてし
まいます。たしか恥骨でした。うつ伏せに倒れてしまったそうです。さらに、入
院中に肺炎を患い、親戚中が覚悟を決めました。幸いにして祖母は肺炎も骨折も
治し、退院します。当時、研究稼業の厳しさに喘いでいた私も大変励まされまし
た。しかし、以来、畑に出ることが出来なくなってしまいました。

 2007年に娘が生まれましたが、このひ孫を会わせることは、なかなか叶いませ
んでした。私が研究渡世のため、遠方に越してしまったためです。娘を会わせる
のは、2009年、祖母にとって最後の夏を待たねばなりませんでした。久しぶりに
会う祖母の肌は白くなっていました。日焼けした祖母しか記憶がありませんでし
たので、とても意外な気がしました。たまたまテレビで山城某が亡くなったと報
道していました。その瞬間、冷たい予感が背筋を通り抜けていきました。娘との
記念に、カメラを持っていったのですが、とうとう撮れずじまいでした。娘が終
始ご機嫌に過ごしてくれたのがせめてもの救いでした。祖母は耳が遠いこと以外
は、しっかりした受け答えができました。祖母との会話は、それが最後となって
しまいました。

 その冬に、2回目の骨折をしてしましました。最期は冒頭に書いたとおりで
す。入院したての頃は意識もはっきりしいて、話しも出来ていたようです。しか
し、年末に私が帰郷した時には、会話はできなくなっていました。年を越し、4
日の未明に逝去しました。この日の昼には存命しており、帰り際に病院に寄った
のですが、すでに親戚が集められて、母もそれに合流しました。家内と娘も立ち
よることができました。娘はただ事でない雰囲気を察知してむずがったので、家
内と外で待ってもらうことにしました。病室で久しぶりに会う親戚としばらく一
緒にいました。旅立つ人に向かって下世話にも「早く元気になってね」等と大声
で呼んだりしましたが、反応はありませんでした。ただ、昨晩から、ずっと目を
あけているとのことでした。今生の別れを覚悟しました。しかし、帰り支度をし
ていながらもう一晩泊るともいえず、やむを得ず帰宅しました。翌朝、姉から訃
報を受けました。後から聞いた話では、私が終電の新幹線から降りる頃に亡く
なったようでした。

 祖母の入院中、仕事の合間をぬって母が付き添いました。母は長女ですので、
祖母の片腕として家事を切り盛りしていたに違いありません。祖母と母は特別な
絆で結ばれていたはずです。そんな母を案じた私は、遠路でしたが葬儀に参列す
ることにしました。意識がある頃、祖母はお寿司を食べたいといっていたようで
す。そんなわけか、告別式では食べきれないほどのお寿司が出ました。姉の子供
たちも重い雰囲気を和らげてくれました。翌日は葬儀があり、花々に囲われた祖
母を火葬場に移しました。20年前の祖父の時と同じ火葬場でした。さすがに母と
その妹の叔母が沈みこんでいました。二人に「おじいさんと同じ場所に居させて
あげるために、同じかたちにしてあげないと」と声をかけてみました。案の定、
あまり効きませんでしたが、前向きに受け取ってもらえたようでした。私も20年
前より人の死を悼む気持ちが強くなっていました。逆説的ですが娘を授かった経
験をしたためだと思います。

 30数年前、私が生まれてからしばらくの間、母と私は祖母の家に居たようで
す。私の先天異常が判明し、母は泣いて暮らしていました。祖母が何かと元気づ
けてくれていたようです。「泣き声で分かる、この子の耳は聞こえている」と。
母は祖母の言葉に希望を託しました。母は私の先天異常を嘆く素振りを見せたこ
とがありません。きっと、その時、祖母が授けた勇気が受け継がれているので
しょう。子供を授かると、その親にも色々なことが起こるのでしょう。
 
 紐で結わえた竹四本の周囲を葬列が回るという不思議な儀式で納骨をすませた
後、参列者一同、お寺の集会所で会食をしました。何やらほっとした雰囲気に包
まれたのがとても印象的でした。長い間、祖母を介護した叔母に労いの言葉を掛
けることができました。「母の代わりに、有難うございました。」気がついたら
土下座していました。祖母のために何もしてこれなかった自分・期待通りの孫で
無かった自分を恥じていたこともあります。周りは少し驚いていたかもしれませ
ん。叔母さんは本当に大変だったと思います。それと、私がやって来たからで
しょうか、母は最後まで気丈でおりました。セレモニー全般に不得手な私が、粗
相しないか注意を払っていたのが却って良かったのかもしれません。

 天国のおばあさんへ:
  
   どうもありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。お祖父さん
には会えたでしょうか。初盆には帰れると思います。


 

 
 

 

2010年6月18日金曜日

イクメンパパ 現実感のない政策

 子育てパパ「イクメン」支援を厚労省が推進するらしい。男性の育児休暇取得
率の向上を目指す、と。
パパの職業や勤務状況によるので、一概な押し付けは迷惑だけど、後世のためと
ても良いことだと思う。

 ところで、パパは外では自分自身やライバルたちと競争しているのですが、イ
クメンしていたら、その競争には負けてしまいます。
イクメンしないパパが、イクメンパパを打ち倒し、先へと進んで行くのは、仕方
のないことです。

 私の場合、子供のころから競争には興味がありません。そもそも闘争心という
ものに欠けているのです。それが経歴に表れていて、たまに恥ずかしい思いをす
るのですが。。それはともかく、イクメン、大歓迎です。娘可愛いし。

 しかし、イクメンに心置きなく携われるのは、雇用が安定している大企業の社
員や公務員くらいではないでしょうか。あと、イクメン日記でも出版して、いっ
ぱつ当てようとたくらむ芸能人の人だとか。

 契約職員で研究者の私の場合、競争に負ければ解雇が待っています。このよう
な状況では、育休取得なんて考えられません。殺伐とした職場では、男の育休な
ど職務放棄とみなされるのが現実です。育休取らなくても、家庭と仕事の両立を
心がけていたら、たった3年でリストラ対象に。

 イメージ先行ばかりで、現実を見ていない政治。所詮、恵まれた一部の人間が
例の裸踊りをしているに過ぎないと思います。

 それにしても、休日に娘を家内に託して仕事に行く時の、辛いこと辛いこと。
あ、今週も休日出勤決定です。働くのは嫌いでは無いけど、少なくともイクメン
している場合ではない、と。

 育児休暇を義務化でもしない限り、普及は無理でしょうね。。それでも抜け駆
けして仕事するパパは出てくるでしょう。世の中、大変厳しいので、そのパパを
責める道理はありません。

 愚痴っぽくなってしまいました。。救いようのない、つまらん内容で申し訳な
いです。

2010年6月17日木曜日

言葉を慎むこと 裸踊りの真意

 戦犯として亡くなった日本の政治家が、処刑の直前に「天皇万歳」を、天皇マ
ンザイですか?などと戯れ言のようなことを言ったという。その人の名は広田弘
毅。ちなみにこの話はフィクションという説もある。しかしその人物象に少なか
らず暗い影を落としている。

 先日、首相を辞任した鳩山由紀夫氏がTwitterで「裸踊りをさせてくれてあり
がとう」と呟いたらしい。元々つかみ所のなかった印象にいっそう拍車がかかっ
てしまった。彼の発言を真剣に受けとる人は、いなくなってしまうのだろうか。

 此の地に棲んではや4年となる。この土地の言葉を一生懸命練習したがとうと
う身につかなかった。家内に中途半端な方言は止めて欲しいと言われてしまっ
た。おかしな言葉を娘が真似するのがいやなのだという。

 人は、言葉を慎まなくてはならない。広田・鳩山・私に共通していいたのは、
油断、である。油断すれば思いもよらない言葉が遂々と出てしまう。しかも、一
度言ってしまったことは消えることはない。

 ところで、国民に沖縄県のことを考えるきっかけを作った鳩山氏の功績は大き
いと思う。米国への追従路線に一矢報いようとした姿勢も国民の心には清々しく
映ったに違いない。一国の代表として米国と喧嘩する度胸の持ち主は、今の日本
には、そうはいない。

 この人は、純粋で強い信念を持つ、好人物であると思う。ただ、それが周囲に
伝わりにくいのだ。理系の人間に似た傾向があるように思う。

 「裸踊り」は、私なりには解釈できる。要するに首相というパフォーマンスに
興じた、と言いたいのだろう。衆目の前で恥も外聞も捨てて、その役割を演じた
のだ。私がこう解釈するのは、学会発表でもパフォーマンスに興じる気持ちで臨
むことがあるからだ。元々、人前に立つことが苦手なのだが、「裸踊り」でもす
ると思えば、度胸がわいてくる。この感覚に近いのではないだろうか。

 鳩山前首相はいつの日か再評価されるだろう。政治家としてはともかく、勇気
と信念の人として。

 

 

2010年1月29日金曜日

久しぶりに更新

してみました。前の投稿から、色々なことがあったので、近いうちにまとめて投
稿することにします。それにしても相変わらず、誰も見ていないのね。。

2009年11月20日金曜日

政治家と科学者の関係について

政治家と科学者の関係について。

 小泉政権下で、「聖域なき構造改革」が断行されました。これにより国立研究
所や国立大学の独法化が決まりました。科学研究に政治家がメスを入れたわけで
す。この時点で科学者たちは団結して抗議行動をするべきだったと思います。
「科学者は意外に我々政治家の介入を許し勢力削減の意向も唯唯諾諾」と思われ
たのでしょう。簡単に言うと、甘く見られ付け込まれてしまったのです。それ
が、今回の仕分け作業の結果を招いたと言えます。日本の未来を、運命を握るの
が科学技術であることは明白なのですから、科学者たちは聖域であると断じ指一本
触れさせず毅然とした対応をするべきであったと思います。
 
 「政治家は、国家を発展させることを目的とする」 これは自明だと思いま
す。国益増進に努める、それが政治家のあるべき姿だと思います(それが行き過
ぎると、国家間の過当競争、そして戦争ということになってしまうのですが、そ
こまでしての国益を日本国民は期待していません。首相が「これから、戦争しま
す」などといったら、たちまち内閣不信任案で解散決議でしょうから、少なくと
も現在の日本ではその心配はいりません)。日本という資源の無い国家の発展に
は、科学技術の推進が不可欠です。そこで、これまでの日本の政治家は科学者を
味方につけ、国力の増進に使ってきました。多かれ少なかれ摩擦はあったに違い
ないにせよ、両者の信頼関係によって成り立って来たと思います。今や、その信
頼関係は、政治家サイドから一方的に破棄され、多くの研究者たちは民主党には
不信感を頂いてしまっています。このような状況では、やがて国力が衰退するこ
とは目に見えています。

 研究者は国家の援助をあきらめ、民間の資金で研究を行うべきとの論調があり
ます。無論そのようなケースが存在して良いと思います。すでに企業と連携し成
功を収めた大学や研究所はたくさんあります。企業の場合、国家の発展よりも企
業の利益を重視します。利益の一部は税金として国庫に納められ、結果として国
家が潤いますから、国益に繋がります。これはこれで良いと思います。しかし、
それだけで良いのでしょうか。他国に伍することは無いのでしょうか。国力を維
持・増進するに必要なものは、お金だけではありません。お金では買えないもの
を作り出すのは、科学技術です。お金で買えない科学技術を、国が国家戦略とし
て欲したとき、政治家と科学者が連携する時なのだと思います。ここで重要なの
は、国民ではなく、あくまで国が必要とするものを作る、ということです。国民
が必要とするものは、企業が主体となって作ってどんどん売るべきです。国民が
必要ないと判断したからといって、国費による研究を中断するのは過剰反応で
す。国費による研究は、国家が必要としないと判断した時に、中止するべきもの
です。

 残念ながら、民主党は、国家戦略として欲する科学技術が無いのだろうと思い
ます。日本は科学技術によって発展した国家である事はさすがに知っていると思
いますので、実際は将来的な国家発展のビジョンすら持ち合わせていないのだと考えられます。
これは大きな問題です。選挙前、民主党の科学技術政策は
分かりにくく、少なくとも詳細な説明はありませんでした。きっと、その時か
ら、国家の発展に科学技術を使うという発想が無かったのでしょう(もしかした
ら、国家を発展させるという政治家の最低限の役割も放棄している可能性があり
ます)。自民党は、様々な問題を抱えていたとはいえ、科学技術無しには生きら
れない日本の特性を知って、科学者との信頼関係を築き、国家発展の基軸と
して科学研究推進を採用していた、ということになります。

 政治家の気まぐれで、科学技術の推進・遅滞をコントロールすることは、長期
的には国益に反します。
 少なくとも日本の政治家は科学研究の推進には積極的に寄与するべきであっ
て、今回の事業仕分けのように抑制的に働くことは望ましくありません。
 民主党は、国益の増進という政治家の最低限の役割を果たすべきです。その核
は科学技術以外にあり得ません。
 国益軽視・科学軽視の政党でも政権党になれるのであれば、憲法を改正するな
どルールを規定して、科学研究を聖域に戻す活動を展開する他ありません。
 

 基礎研究と応用研究という対立構造については、また。
 あと、国民へのアピール不足という意見、国民(世論)と科学者という関係に
ついても。



事業仕分けについて(1)

話題の行政刷新会議での事業仕分けについて。

 実は、私の所属プロジェクトも俎上に上げられ、多くの科学研究関連予算と同
様、要約として「縮減」という結果でした。学内関係者や所属学会から、今回の
結果について、文部科学省に意見を出すように依頼が来ました。しかし、お恥ず
かしいことに、自分での様々な立場が葛藤し、自分の意見をまとめることに難渋
しておりました。論を進めるごとに、別の立場の自分が現れ相克してしまって、
収拾がつかなくなっていたのです。

 思考がどこで縺れているのか、自分なりに考えたところ、「1人の国民として
の立場」「1人の研究者としての立場」「この事業で生活費を頂いている者の立
場」、の3つの立場があり、それぞれが葛藤していることが原因にあるようで
す。また、今までこのような事を深く考えることが無かった自分に呆れてしまっ
て、それがまた遅筆の遠因であったように思います。

 自己嫌悪はさておき、上にあげました3つの立場のうち、「この事業で生活費
を頂いている者の立場」は、至って私的な観点に起因する立場といえます。一方
で、今回の出来事を、私にとって深刻な事態にしているのも、この立場です。し
かしながら、このプロジェクトの来年度の採択がかなり厳しい状況にあります
し、また客観性を欠く要因とも成り得るので、ここでは潔く葬り去っても良いで
しょう。

 さらに立場を整理して論点を明白にして行きます。

 残る2つの立場「1人の国民としての立場」「1人の研究者としての立場」
は、どちらも軽視することができません。行政刷新会議は財務省の提案は発端で
ある様子ですが、選挙で選ばれた政権党が公認している以上、当然無視できるも
のはありません。民主主義のルールに則り、大きな影響力を持って然るべきだと
思います。よって、仕分け作業の結果も、国民の総意として、当事者は真摯に受
け止める必要があります。しかし、その結果が、本当に国民にとって良い将来を
約束するものなのかは疑問です。もし、民主党が公約を完遂するための財源を確
保することだけが目的であれば、民主党の選挙対策としか思えませんので反対で
す。一連の公約は、国民の将来を短期的な視点でしかとらえていない政策です。
科学の発展は国力の発展に直結していますが、成果の還元は長期的な視点で捉え
る必要があります。

 要するに、「即効性」をとるか「遅効性」を取るかの問題といえます。

 しかし、その2つしか選択肢が無いのだとしたら、国家の取りうる方針として
は、あまりに貧弱で心もとないと思います。そこを柔軟に考えてこそ、政治だと
私は思います。

 私は、麻生内閣の「定額給付金」の経験から「子供手当支給」の経済効果とし
ての即効性は期待できると思います。一方、科学の発展が長期的な国力の増進に
繋がることは、歴史が証明しています。例をあげると、「製鉄」「産業革命」
「兵器」「抗生物質」「エネルギー」等が該当します。より現代的な例では、IT
技術があげられます。デジタルディバイトは今や国家力の差を規定するものでも
あります。
 
 私は国粋主義ではありませんが、日本は発展し続けることの可能な数少ない国
の1つとして、今後も人類の発展を科学や文明で牽引していくべきと思います。
また、日本は資源が乏しく、科学技術分野での成功無くしては、やがて黒船に怯
える時代に後戻りしてしまうと思います。したがって、科学技術の分野で世界を
牽引していく事が合理的であることは明白です。

 しかし、民主党の考えは、「科学研究のような長期的な見返りのある政策は一
旦休止か遅らせてでも、即効性のある政策を優先したい」ということのようで
す。この一時的な休止が、後で挽回できるものか、それとも、気がついたときに
は、致命傷の遠因となるのか。

 未来がどちらに向けて進んで行くのか、多くの国民には判断材料がないと言っ
て良いでしょう。そこで、判断材料を持つ国民、すなわち科学者の意見が重要と
なるわけです。

 

2009年11月18日水曜日

Moodleでのファイル管理: ファイルサイズの上限(100Mb)の変更について

久々の更新です。
(親知らずを抜いて以来、落ち込むことが多かったけど、なんとか生きていま
す。。)

Moodleのファイル管理機能は非常に便利です。
私の場合、メールではやり取りするには大きなファイルのファイル共有にも使っ
ています。
ファイルのリストに、アップロードしたユーザの名前が出れば、他の追随は許さ
ないでしょう。

アップロード可能なファイルサイズは、2Mから100Mまで選択可能です。
100Mb以上に設定するには、下記の方法で可能です。 ちなみにOSはRHEL4です。

1. /etc/php.ini

post_max_size = 既定値
upload_max_filesize = 既定値

の既定値の値を、アップロードを許可するファイルサイズの上限に書き換えます。

post_max_size = 200M
upload_max_filesize = 200M

2. httpサービスのリスタート

/etc/init.d/httpd reload

以上で変更が反映されます。

1.のphp.iniの位置が分からない場合は、管理者アカウントでログインし、
サイト管理→サーバ→PHP情報 で表示される画面の、「Configuration File
(php.ini) Path 」で確認することができます。

お役に立てば。

まあ、自分のためのメモでもあるのですが。